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その歴史と背景

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石碑裏(碑文).JPG<注意:このページはまだ工事中。ライフワークとして?改訂していきます>

「写真は、京都武徳殿前に建立された高専柔道之碑の裏面にある碑文」

●七大ルールの柔道とは:
旧制の「高等学校・専門学校柔道優勝大会」、
通称「高専柔道」の流れを汲む柔道です。

(※現在の高等専門学校の略称である「高専」とは無関係です)

「高専柔道大会」は、その最盛期、全国ほぼ全ての「高」等学校と「専」門学校(※旧制なので現在の大学生の年齢に近い)が参加する、最大規模、最高レベルの学生の大会であり、かつ日本の柔道界における最大規模の団体戦の優勝大会でした。さらに立技偏重の講道館柔道と異なり、高度な寝業の発達を遂げ、当時としては技術的にも練度的にも世界最先端・最高峰にあり、革新的な技術を生み出し続けました。(講道館の柔道家でも寝業に関しては高専柔道に習い、牛島辰熊(鬼の牛島、全日本選士権者)などの強豪も当時最高峰であった六校で寝技修行を行っています)。

(※:旧制の「高校生」の年齢は、
現在の学制であれば、
高校3年生~大学2年生の年にあたる(たしかそう)。
柔道ばっかやってて、一浪一留くらいすると、
ちょうど現在の大学1~4年生の年になりますね・・・)

高専柔道大会は戦争により中断、戦後は消滅。
現在、このルールは、旧七帝大(北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大)
による「全国七大学柔道優勝大会」、
またはそれら大学と関係校との間の練習試合、対抗戦などで
「七大学ルール(七大学柔道大会試合審判規定)」
の柔道として細々と行われています。

もはや無形文化財で、文化遺産で、絶滅危惧種です。
これを残して継続していくのは・・・そこのあなた?!

ちなみに七帝戦(七大戦)は運動部による総合体育大会ですが
これ自体、もともとは柔道部の対抗戦が発祥で、
やがて他の運動部に広がり、統括されたもの。
当初、七大戦(七帝戦)とは、「柔道の試合」でした。


木村政彦本.jpg※木村政彦は1936年(昭和11年)拓大予科を率いて当時、学生柔道の最高峰にして寝技の世界最先端でもあった高専柔道大会に優勝。翌1937年より全日本選士権を連覇のまま戦後にいたるまで無敗。後年でも寝ては五輪選手を子供扱いにしたという最強の「高専柔道家」。エリオ・グレーシーを倒したのも立技重視の講道館柔道だけでなく、高専柔道にも適応していたため。エリオを仕留めたキムラ・ロック(腕絡み)は高専柔道でのカメ取りにも威力を発揮したという得意技。

武道を生きる.jpg※現在の「講道館柔道」とは異なる実戦・実力派柔道であって、かつ戦後、歴史から消された「大日本武徳会」、「高専柔道」などについてはここに紹介の本(武道を生きる:松原隆一郎)などが参考になるでしょう・・・
あと、「秘伝」で柔道(寝技)特集があった時の柳澤健氏や、増田俊也氏の記事とかもマニアの方は是非どうぞ。

参考:①秘伝の記事より
小田常胤と高専柔道と七帝柔道(増田俊也)(北大柔道へリンク)

②平成21年には「高専柔道」とは柔道感やルールにおいて歴史的に「対立」があった「講道館」を舞台に初めて七大戦がおこなわれました。(上村春樹・講道館館長・全日本柔道連盟会長の理解によるものと伺っております)。
その際の大会委員長・東京大学柔道部部長・松原隆一郎教授の挨拶文
(第58回全国七大学柔道優勝大会(平成21年)「大会委員長挨拶」東京大学柔道部部長・松原隆一郎)ほかについて→以下ブログ参照。

参考
「東大柔道部長松原先生挨拶文について


③参考:ブログ記事
「国力(経済情勢)と武道の盛衰」について


④参考:「松本安市の近代柔道史(講道館・武徳会・高専柔道ルール・・)」


柔道界.jpg古流柔術から柔道への流れと「講道館」「武徳会」「高専柔道」の勢力図
(「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(新潮社・増田俊也)」
p218)

⑤参考:
「講道館・武徳会・高専柔道の勢力図」